宇和島から映画の消える日

酔いどれ天使

黒澤明を見た

なんかタイトルからして仰々しい。
○第12回生涯学習うわじまフェスティバル
○優秀映画鑑賞推進事業
○第2回宇和島名作劇場
上の文字はいったいどれがどれにかかるのか意味不明
分解して読めば、まあ、なんとなく理解は出来るけれどねー。

平成17年2月27日(日)
宇和島市生涯学習センター大ホール
主催・文化庁・東京国立近代美術館フィルムセンター・宇和島市・宇和島市教育委員会
協賛 宇和島市優秀映画鑑賞推進実行委員会
後援 愛媛新聞社・宇和島ケーブルテレビ

問題1 はたして主催者、協賛者、後援の団体からいったい何人の人が会場に来ていたでしょうか??

上映された映画は時間の順番に「酔いどれ天使」(黒澤明)「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介)「日本の悲劇」(木下恵介)「羅生門」(黒澤明)であった。午前10時に中央公民館ホールで上映は始まった。悲惨なのは舞台に映写機を設置して、反対側にスクリーンを貼るという銀幕としては最悪の環境であったことと、座席は折りたたみのパイプ椅子で、長時間座りっぱなしで見るには、肉体的にもきつかった。
 「おめーら、お上が、安い料金で日本文化の伝統を持つ映画を見せてやるから、ぶつくさ言わねーで、黙って見ろ。見たくねー奴らはとっとと帰っちまいな(上田吉次郎の真似で)」というお役人様の声が聞こえそうな環境であった。文化庁というのはたいした役所だ。日本文化も滅びるはずだわ。

 まあ、文句はこのくらいにしよう。私は実は巨匠黒澤の初期の作品を見たことがなかったのである。ビデオで見ようと思えば見ることは可能だが、やはり映画は大きな画面で、腹にびりびり響くような音が良い。木下恵介の「喜びもーー」は昔見た記憶があるが、これも改めて見たかった。
 午前10時、荒れた画面の「酔いどれ天使」が始まった。この時間はまだ観客は少なく、およそ4〜50人程度であっただろうか。前の席の人も少なく、影で画面が見えないという現象はまだ軽微であった。この後、画面の四分の一は見えないという悲劇に見舞われる。肉体的な苦痛から、三番目の「日本の悲劇」はついに見ることを断念した。家に戻り午後6時から上映される最後の「羅生門」まで休養する事にした。

以下☆は文化庁のパンフレットからの引用である。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

酔いどれ天使 1948年 東宝
スタッフ
脚本         植草圭之助 
脚本・監督     黒澤明
制作         本木荘二郎
撮影         伊藤武夫
照明         吉沢欣三
録音         小沼渡
音楽         早坂文雄
美術         松山崇

出演者
真田         志村喬
松永         三船敏郎
岡田         山本礼三郎
奈々江       木暮実千代
美代         中北千枝子
ぎん         千石規子
ブギを唄う女    笠置シズ子
ひさごの親父    殿山泰司
セーラー服の少女 久我美子
婆や         飯田蝶子
親分         清水将夫 

戦時中、『姿三四郎』(1943)で鮮烈なデビューを果たした黒澤明監督は、戦後も『我が青春に悔いなし』(1946)や『素晴らしき日曜日』(1947)の成功で、日本映画の若きエース的存在となった。「キネマ旬報」ベストワンに輝いた黒澤の7作目にあたるこの作品は、闇市のヤクザと飲んだくれの貧乏医者との不思議な友情と葛藤を描いたもので、強烈な個性を持つ若者とその観察者の設定や荒々しい映像表現の顕著さという点で、以後の黒澤映画のスタイルを決定づけたものと言える。前年に谷口千吉監督の『銀嶺の果て』(黒澤脚本)でデビューしたばかりの三船敏郎が黒澤に初めて起用され、野性味あふれるその個性をいかんなく発揮し、以後の黒澤作品に欠かせぬ存在となったことは周知の通り。また、映像と音との体位法的表現(雑踏の中の〈カッコー・ワルツ〉の使用やギター曲〈人殺しの歌〉など)を試みた黒澤にとって、この作品から参加した音楽家早坂文雄との出会いも幸運であった。

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 酔いどれ、は戦後間もない、都会の駅近くの猥雑な一角を舞台にした、志村喬演じる酒飲みの町医者と、三船敏郎演じる肩で風を切るヤクザ幹部松永との絡みを中心にした人間ドラマである。
パンフでは、ギターの「人殺しの歌」という曲が強調されているが、私はむしろ何も言われてはいない、冒頭の曲のシーンに驚愕した。

 ある夜、左手に銃弾を受けた、三船が町医者を訪れ、治療を受ける所から物語りは始まる。バックに流れるたどたどしいギターの音色は「小雨の丘」である。
ところが、その曲にあわせ鼻歌を歌う医者の歌は「港の見える丘」なのである。

「小雨の丘」 作詞・サトー・ハチロー  作曲・服部良一

1 雨が静かに降る 日暮れの町はずれ
  そぼ降る小雨に ぬれゆくわが胸
  夢のようなこぬか雨
  亡き母のささやき
  ひとりきく ひとりきく
  寂しき胸に

2  つらいこの世の雨 悲しきたそがれよ
  そぼ降る小雨に 浮かぶは想い出
  うつり行く日をかぞえ
  亡き母を偲べば
  灯火が 灯火が
  彼方の丘に
  
3 丘に静かに降る 今宵のさみしさよ
  そぼ降る小雨と 心の涙よ
  ただひとりたたずめば
  亡き母のおもかげ
  雨の中 雨の中
  けむりて浮かぶ

「港が見える丘」 作詞・作曲・東辰三

1 あなたと二人で来た丘は
  港が見える丘
  色あせた桜唯一つ
  淋しく咲いていた
  船の汽笛咽び泣けば
  チラリホラリと花片
  あなたと私に降りかかる
  春の午後でした

2 あなたと別れたあの夜は
  港が暗い夜
  青白い灯り唯一つ
  桜を照らしてた
  船の汽笛消えて行けば
  チラリホラリと花片
  涙の雫にきらめいた
  霧の夜でした。

 
 旋律は前者がマイナー、後者はメジャーコードだと思う。従って曲のイメージは全く異なる。しかし歌詞を読めば、どちらももの悲しいものである。丘は共通の舞台だ。これについては黒澤はかなり何かを意識しているのではないかと思うが、残念ながら私には正確なメッセージはつかめない。ただ、判るのは、前者はこの世に存在しない人を偲ぶものであり、後者は別れたにしても生きている人間を思う歌である。そうしてパンフにもある「人殺しの歌」に変わるのである。

 黒澤は何を伝えたかったのだろう。人間が物理的な生命体として存在するだけではなく、人間としてどう生きるかという「生きる姿勢」を問うたものでは無かったのか。後日有名な「生きる」で病に冒された志村喬が公園のブランコに座り「ゴンドラの唄」の「命短し、恋せよ 乙女、」と口ずさむシーンがあると聞く。
歌と、シーンとに込められた、監督のメッセージをどうとらえるのか。

 ここに出てくる町は私には東京の大井町のように思えた。亀戸でも錦糸町でもない。大井町でなければいけないような気がした。その理由は分からない。
 映画は常に大きな水たまりを取り囲んで展開する。その水たまりからはメタンガスのようなあぶくが沸いている。しかし自然の沼のようには見えないその水たまりは、私には米軍が投下した爆弾跡のように思えた。岸辺の植物は見られなく、廃材だったり壊れた人形、自転車などが捨てられている。意図的に人工物だと強調したかったのだろうか。画面の98%を占め、45度の角度で見下ろす水たまりの絵が盛んに出てきた。この頃には黒澤特有の豪雨のシーンはまだ見えない。そればかりか、夏だというのにせりふを言うたびに呼気が白く見えるという不自然なシーンがあった。これも初めは時間的な制約かと思っていたが、彼なりのメッセージがあったのだろうか。

 話を戻そう。手を治療した松永が軽い咳をする事から、医者は結核を想定し、X線検査を勧める。「死ぬことなど恐くない」とうそぶく松永に「お前のような人間のくずの命を救おうとは思わんが、その胸の中にいる結核菌を殺したい」とこたえる医者。こうして次第に松永と医者の絆が強くなってくる。
 医者のもとに通院する、結核にかかった女学生として久我美子がでてくる。彼女は医者の言いつけを守り、病気に勝とうとする聞き分けの良い患者である。かたや松永は、酒を断とうと思いながらも、それが出来ない不健康な生活を送るヤクザである。健康を気にして、医薬品や健康食品を愛用し、規則正しい生活をするヤクザがいると面白いが。まあ、ここはとばす。やがて、松永の兄貴分にあたる男が刑務所から出てきて、彼は愛人を奪われ、病気も次第に重症になってくる。かってはこの土地で顔役として存在していた松永は、今や、瀕死の重病人で、医者の家にやっかいになっている。様々なことから、自分がもはや存在の意義の無いことを知った松永は、単身兄貴分を殺害しようと、かつて自分が愛人と暮らしたアパートの部屋を訪れるが、返り討ちにあい、ペンキまみれになりながら殺されてしまう。このシーンは後に日活の「無頼非情」(江崎実生監督)のラストシーン、渡哲也と内田良平の格闘場面にぱくられているようだ。

 最後のシーン。松永に思いを寄せていた、居酒屋「ひさご」の女性が遺骨の入った箱を持ち、水たまりを眺めている。そこに医者が通りかかる。
「あいつは最後まで獣だった」、という医者に「あの人は、そんな人ではありません。私が田舎に帰って、病気を治そうと話した時に、泣いて居ました」と松永に人の心があった事を強調する。
 その時、女学生がX線フィルムを持って走ってくる。彼女の結核が治っている。医師と女学生は腕を取り合って、言うことを聞いて治ったら、おごる約束をした「あんみつ」を食べに行こうとする。医者は女にも行かないか?と誘うが、彼女は素っ気なく断る。女学生は医者に取り従順な患者であり、松永は最後まで彼の言うことを聞かない不従順な患者であった。

 私は最初は、志村演じる医者がガンコだが、人間味あふれた、善良な人間だと思って観ていた。確かにそういう役に違いないのだが、この最後のシーンで、自分の言う事を聞かず、死を選んだ松永を突き放すような言い方をする彼に、ふと人間の持つ欺瞞生を感じてしまった。

 「羅生門」では、言いようのない人間不信のドラマの最後に、子だくさんの貧しい農民の志村喬は、子供が一人くらい増えたって気にしない、といって捨てられていた乳飲み子を引き取るシーンが救いになった。ここでは疑問なく志村喬を信じられるのだが、「酔いどれ天使」では、彼ははたして天使だったのか?

 余談になるが、今日のテレビニュースで宇和島から映画館が無くなる事を知った。ついにそういう日が訪れるのか。なんとも淋しい限りである。
平成17年3月8日 映画館が消えるという話を聞いて急に思いつきこのページを作った。

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