スーパー林道から見た夕暮れの宇和島


赤松海岸先から(沖合の小島は野島)

 
同じく、宇和島湾の夕景


 正確な内容は忘れたが、どこかで聞いた話しに次のようなものがある。
地域における夕焼けのとらえ方にも、いろいろあり、同じ四国でも、太平洋を見て暮らす
高知県人と、瀬戸内海の夕焼けを見て暮らす、愛媛県人では、
生き方自体の根元に関わる大きな違いがあるらしい。

誤解を恐れず端的に言えば、高知県人は沈む夕陽を眺めて、明日のことを考えるらしい。
愛媛県人は、今日一日を振り返り、内省的になるらしい。決してこれが100%正しい分析
だとは限らないが、面白い分析である。

明日を思う心と、今日一日を反省する心で眺める夕焼けは同じでも、人それぞれの人生が
夕焼けに映し出されるのであろう。
夕焼けは毎日その姿を変える。似てはいても全く同じ顔はない。夕焼けにある様々な表情に、私はいい知れない哀愁を感じるのである。

 
八面山頂近くで見る夕日

 宇和島という場所は夕焼けを見るには恵まれた場所だと言えるだろう。かってある夏
の初め、私は北海道の西岸で夕焼けを眺めた事があった。留萌から北に向かう途中
であった。名も知らぬ海岸の高台にテントを張った。北の台地から太陽が日本海
に沈む寸前、彼方に天売、焼尻の島影を見た。失意の孤独な旅の途中であったた
め、無性に悲しい光景であった。そこにいるのは私一人であった。寂寥感に支配
された夕焼けであった。


左・天売島、右・焼尻島(北海道にて)


それに比べると、宇和海に沈む夕陽はそこまでの寂しさはない。
どこかに人の営みが感じられる。
人を突き放すような無慈悲で残酷な夕焼けではない。
やはり夕陽は山間に沈むものよりは、海に沈む方が良い。
見る者の心に、わずかではあれ明日への希望がふくらんでくる。


スーパー林道から撮った御五神島(左)かすかに九州が見える
肉眼では水の子島も見えたが、デジカメには写っていなかった。平成16年10月23日


ある冬の夕暮れ、スーパー林道から眺める夕陽の中に、くっきりと九州の山並みの
輪郭が浮かび上がったのを見たことがある。
 そう言えば昔東京にいた頃、箱根の山影が見えたり、富士山が遥か遠くに見えた事
もあった。


津島町・北灘湾

北海道で見た日本海に沈む夕陽に近い悲しさを覚えたように、
九州熊本県の五木村で見た夕陽にも同じ思いを感じた。
幾重にも連なる山並みに落ちる夕陽を峠で見るのは、
なんとも耐え難い寂しさがあった。
幾重にも折り重なる山並みに、自分の人生を重ねあわせ、
そこに過去を見て、明日を見てしまうのである。
四国でも時々奥深い林道で日暮れを迎えた事がある。
これもまた寂しさを覚えてしまう。過疎の山村の家々に小さな灯が灯りそこに人が
生活している事が何故か一層、寂しさを感じさせてしまうのである。


高茂岬にて

大崎鼻から・佐田岬


左同・夕日の右に由布岳らしい山影

夕日に染まる大崎鼻の灯台もやがて灯りをともす


宇和島市街


右端は九島


番外・高知横波

   
下波湾の夕景


夕日には少し早い遊子の夕景(美地島辺り、先にはかすかに佐田岬)


スーパー林道から見た宇和島市街
一番明るいのはパチンコ屋(こういう事実自体が寂しい)


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