その2 パリ編−1(5月6日から13日)

1975年5月6日 午前11時羽田を発ったアエロフロート機SU576便は、モスクワ経由で18時間のフライトの後、パリ、ドゴール空港に到着したのはその日の午後8時頃だった。

バスで、インバリッドに出て、地下鉄で北駅の近くの安宿にとりあえず宿泊。(1泊32F・1=約70円)ついたとき、パリの町は小雨に煙り、バスの窓から見る風景は、まるで夢でも見ているようだった。ジャンポール・ベルモンドの映画の看板が印象的でした。

ついてからしばらくは、天気が悪く、小雨か、どんよりとよどんだ空ばかりであったが、しっとりと濡れたマロニエの並木がきれいで、すべてが私にとって新鮮な風景だった。

初日は北駅の近くのペンションに一泊、その後地下鉄オデオン駅のそば、ソルボンヌ大学に近い一つ星のペンションに1泊、オペラ座の裏のスイス・サボイに1泊、日本で聞いていた三ツ星「ホテル・リッチモンド」に4泊した。

左は大統領が出てくると言うので、ずっと待っていた時のものです。ずいぶん待ったあげく、黒いシトロエンが3台それぞれ白バイの先導で三方向に走っていきました。あっという間の出来事でした。ダミーが二台いるとのこと。この警備の警官はサービス精神にたけていてカメラを向けるとポーズをとってくれた。

パリについてすぐに、シャンゼリゼのJALのオフィスに無料の市街図をもらいに行った。

JALはパリに限らず、民間人用の大使館の役割を果たしているようだ。フランス以外でも運行便が当時無かったスペイン・マドリッドにもオフィスがあり、伝言や手紙の受け取りに重宝した。

私のルートはあらかじめ計画しており、時間のずれはあったが、だいたい予定りの行動をしていた。前もって、立ち寄り先のJALの住所を家族に教えていたので、連絡は時々入る事が出来たりました。

ついた当初、セーヌ川のほとりを歩いたのですが、水は濁って薄汚くおまけに天候は悪く、最初から覚悟はしていたものの、一人旅の寂しさを痛切に感じた。

この頃が一番ホームシックになっていた。

それでも、やはり文化の都パリです。建物、橋、すべてが芸術品という感じです。ところどころにフランス革命を物語る銃弾の跡が残っているのもパリならではである。


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セーヌの川岸

さすがに文化の都 モザイクの歩道がきれいでした。地下鉄駅も(ただ、東京の日比谷線と、銀座線の違いがあるように、パリでもすべてが綺麗だとは言えません)

地下鉄「コンコルド」駅のホーム


(写真・17KB)

ここで、わたしの旅のルートを紹介する。

(一部勘違いもあるかと思うが)

パリ−オランダ(アムステルダム)−ドイツ(コブレンツ、マインツ、ビュルツブルグ)

オーストリヤ(ザルツブルグ、インスブルグ、バッドイッシュ)

スイス(ベルン、グリンデルワルト、ジュネーヴ)

スペイン(バルセロナ、マドリッド、コルドバ、アルヘシーラス)

モロッコ(カサブランカ、諸々)

パリに滞在したとき、ルーブル美術館に何度か行きました。

日曜日の午前中は無料と聞いていたので、貧乏旅行をしている私には大変有り難い思いでした。おまけにルーブルに限らず、ほとんどの博物館、美術館がフラッシュをたかない(今はストロボですね)限り、写真撮影が自由と言うことです。芸術品は独占すべきでないという精神があるのでしょうか。

どこかの国と大違いです。

(写真・左 25KB  雨の日の凱旋門。でっかいフランス国旗が綺麗でした)

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