スペイン編 1 (5月29〜6月10日)

ジュネーブ駅の人影もまばらな国際線のホームからスペインのポートブー行きの列車に乗り込んだ。車内はがらがらで、ジュネーブから乗ったのは、私以外に3人ほどであった。

5月末はまだ寒い。私は一人コンパートメントのイスに横になり、シュラフに潜り込んだ。12時頃であろうか、列車がフランスに入って間もないころ、止まった駅からフランス人だろうと思われるおっさんが、私のところに乗り込んできた。酒とニンニクの匂いをぷんぷんさせながら、私に話しかけてきた。どうやら、サッカーのワールドカップの試合に興奮しているらしい。ジェスチャーゲームよろしく、「テレビ」「サッカー」と身振りで話しかけてきた。突然の侵入者にとまどいながら、国際親善のために私はシュラフから出て、このおっさんの話し相手をする事になった。

「トキョー、アビヨン、パリ」と私も身振りで地図を広げて、今までのコースを言ったり、これからどこに行くのか教えた。半分通じたようだが、まだ何かもの足り無そうにしたおっさんが、いったい何を言いたいのか知りたくて、私は持っていた「日本交通公社」の6カ国語会話辞典をとりだした。おっさんはやにわにそれをとると、裏に書かれた「ジャパン トラベル ビューロー」の文字を見て「オー、ジャポネ」と叫んだ。それまで、この東洋人がどこの国の人間か知りたかったようだった。

私のいるコンパートメントは暖房が壊れているようで、途中検札に来た車掌に苦情を言ったようだが、カーディガンのおっさんは盛んに寒いそぶりをしていた。私だけシュラフに入るのも気が引けるので、彼につきあい、寒い車中を過ごした。ぐっすり寝る間も無く、いつしか夜明けの地中海が見えてきた。おだやかな地中海を赤々と染めて

太陽が昇り、まだ、眠りについている白い町をいくつも列車は駆け抜けていった。広々とした平野の続く海沿いの沿線も、いくつか山の中のトンネルを通過するといつしか景色が変わっていた。「ピレネーを越えるとそこはアフリカだった」という文句を思いだした。

ポートブーで税関を通り、ヨーロッパよりまだ巾の広い軌道の列車に乗り換え、スペイン最初の町バルセロナに着いたのは午前11時頃だった。バルセロナの駅で、マドリッド行きの夜行列車の予約を取っていると、ザルツブルグで見かけた日本人の女性に出会った。偶然にも彼女とは同じコンパートメントになっていた。偶然とはいえ不思議な話である。偏見を持っていた私は、スペインでは列車の管理をコンピュータで行ったいることに驚いた。

彼女は岡山県の「A」さんと言い、前にもスペインには来たことがあるという。駅で立ち話をしていると、あとから二人イギリスから来たという二人の日本人の男達がやってきた。4人でと昼食をとった後、「A」さんにバルセロナの町を案内してもらった。

 列車の時間まで、復元されたコロンブスの船や、ピカソ美術館などを見て歩いた。

ピカソ美術館では、それまで前衛的な絵画しか知らなかったピカソのクロッキーなどが展示してあった。画用紙に何枚も書かれた鉛筆のデッサンには、何かに苦悩する彼の心が滲んでいた気がした。そして、ここには無いが、あのゲルニカと並んで有名なオリーブをくわえた鳩の絵を見たとたん、胸に熱いものが伝わるものを感じ、思わず涙がこぼれそうになった。

絵画に感動したのはこの後プラドで見たグレコのキリストの絵とここの鳩くらいであった。

バルセロナは、それまで、スペイン戦争でフランコ軍とスペイン人民軍にも見捨てられた自由主義者やアナーキスト、国際義勇軍の最後の戦場であった。学生時代に読んだ、ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」の私の勝手なイメージがあり、ロマンを感じる町だとばかり思っていたが、少し違った印象を受けた。何か暗い雰囲気の漂う町のように思われた。

(ちなみにこの国際義勇軍の中の犠牲者の中に、唯一の日系アメリカ人の、ジャック・白井という人がいた。「石垣綾子著−オリーブの墓標」=現在は改題されているかもしれません)

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