その4 オランダ−アムステルダム編

(1975年5月13〜15日)

  

5月13日午前7時50分、パリの北駅からアムステルダム行きの特急列車に乗りました。決して私の旅は、行き当たりばったりの旅ではなく、何ヶ月も前から周到に計画を立てていました。何しろ、妻と一歳にになったばかりの息子を残して、一人旅に出たものですから風の吹くままと言うわけには行きませんでした。

乗り物の接続や時間などは日本にいるときに時刻表で調べてはいましたが、季節によって列車の時刻が変わることもあるので、前日に駅まで行き時間を確認していました。

今でもあるかどうか判りませんが、当時はユーレイルパスというものがあり、日本でしか買えないフリーパスで、1ヶ月一等車乗り放題と言うものでした。値段ははっきり覚えていませんが、1ヶ月で6万2千円だったと思います。これとは別にいろいろなパスがありましたが、なんと言っても便利でした。西ヨーロッパ13カ国で使えたのではなかったかと思います。(それにしても、今思うと、よくかみさんが許してくれたことと感謝しています。)そのときの約束で、私が定年になったら、同じコースを回ろうと言うことでしたが、現在失業中の私には、かみさんとの約束を果たすことが出来そうにもないことが、申し訳ない気持ちで、このページを作っています。

     

列車は小雨の中、ベルギーを通り抜け、午後2じにアムステルダム駅のホームに着きました。途中、ブリュッセルから乗ってきた、30代の男性の高校教師とふたりっきりのコンパートメント(1部屋6人、三人ずつが向かい合わせに座るようになっています)で会話をしている内に着いたので退屈はしませんでした。彼は長崎の出島のことを知っていました。

第一印象はまずまずでしたが、町に着いてから、不愉快な出来事に出会いました。列車の中でも、近くのコンパートメントでイギリス人らしい奴らが「イエローモンキーが云々」と言う会話をしている声が聞こえました。多分私の事でしょう。 

観光国オランダではVVVという観光局のようなものが、やたらえらそうにしています。私が安い所を探しているというと、予算はいくらかと聞くので、200ギルダーくらいではないか(1G=約100円)鼻でせせら笑って、「それならユースにでも行きな、」と言われました。町で出会った日本人に安い所を教えてもらいましたが、VVV を通してないからと断られ、結局ユースに行くことになりました。

    

ここのユースは凄いという噂を聞いていたので、あまり行きたくはなかったのですが、背に腹は代えられません。それに、いつかはユースを利用する事になるからまずは体験と、思い切ってユースに行く事に決めました。ここでの道の教え方は、「何番目の橋を右に−」と言うように橋を基準にしているほど橋の多い、さすがに運河の町でした。子供の頃読んだ本で「嵐の前」「嵐の後」とか言ったタイトルのものがありましたが、主人公が、真冬に凍った運河をスケートで走る様子を思い出しました

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ユースに入ったとたん驚きました。ロックがガンガン流れ、ヒッピーのような管理人。ロビーにはビールの自販機があり、健全な日本ユースホステル協会の人が見たら驚くことでしょう。でもここでの体験は貴重なものになりました。                                                    

着いた日は小雨でしたが、翌日は快晴。ここでもJALを探したあと、ゴッホ美術館、レンブラント美術館をはしごして。日本から持っていった、美津濃製のリュックが小さくなったため、パイプフレームのリュックを買うために、スポーツ店に行きました。その帰り道に迷い、あの「飾り窓の女」の一角に入り込み、汗をかきながら、あせってユースにもどりました。帰って買ってきたリュックをよくよく見ると「MADE IN JAPAN」の文字が目に入りました。

3日目の午前中はのみの市に出かけましたが、カフェで昼食をとっていると、そこで働かないかと誘われました。風来坊ならよかったのですが。あいにく家族が日本で待っているので断りました。あらかじめアムステルダムはやばい町だと聞いていたので、こちらも身構えていました。私も次第に安全な所とやばい所のかぎわけが出来るようになっていました。自転車がやたら多い、くらい感じの町でしたが、アンネ・フランクの印象からでしょうか。

 

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