宇和島の町名

一部・昭和27年(1952)発行「南予史談」第三号 
「宇和島の町名及び字の研究」 五島英夫 著より引用

龍華前(りゅうげまえ)
伊達家菩提寺である龍華山等覚寺(りゅうげざんとうかくじ)の門前にあたる事が町名の由来。旧藩時代には下士層(御小人組)などが居住した町で、龍華前通りとも言われた。小字に御小人町、漆端がある。漆端は川岸に漆の木を植え伊達藩の御用に供したもの。

一宮下(いっくした)
宇和四郡の総鎮守であった宇和津彦神社(うわつひこ )は一宮様と呼ばれ、その境内の下にあたるのでこの名前が付いたと言われている。旧藩時代には下士層などが居住していた。伏町と呼ばれた町もあったらしい。小字に御先弓、伴の丁がある。伴の丁は「伴」氏の住宅があったので起こる。

愛宕町(あたごちょう)
昔は山伏町と言った。愛宕護神社があったので、この名が付いた。また愛宕山延命寺があり、ここの修験者がいた。愛宕の別当であった、御鷹匠が居たところである。

鋸町(おがまち)
文久の頃の記録では鉄砲組などが居住しており、すでに鋸町と呼ばれたいた。以前は木挽き職人が多く住み、彼等が使用する「のこ」大鋸に由来するとも、おが屑が多く出るので、この名が付いたとも言われている。

大工町(だいくまち)
宇和島藩作事奉行配下の大工職人が多く居住していたので、この名が付いたと言われている。大工と言っても準士族で「一本差し」の大工が住んでいたと書かれている。

樽屋町(たるやまち)
元禄頃の記録では木挽町とあるが、後に樽屋が多く居住したので樽屋町と改称されたという。小字の「風呂屋横町」は通称として今も残っているそうである。

大石町(おおいしちょう・おいしのちょう)
伊達家入部以前、宇和島城下の町作りの際、土中から大石が多数掘り出されたことからこの名が付いたと言われている。なお古くは板島丸串城の外郭でもあった。管注・現市内でも東部山よりの高所にあり、山からの土石が堆積したものでは無いだろうか。私はもっぱら「おいしのちょう」と言っている。

賀古町(かこちょう)
御典医賀古氏が居たのでそう言われた。
余談
幕末に賀古朴庵という人がいた。鶴をもらい請け解剖し、足は何匁、腸は何匁、羽根は何尺という様に計り、これを拡大して飛行機を設計して作り、自らが屋根の上からそれを装着して飛び降りたが、鶴の様には飛べず足の骨を折ったそうである。宇和島での最初の飛行機だそうな。

鎌原通(かんばらどうり)
旧藩時代には上士層の屋敷町であった。藩の御物頭鎌原五右衛門の屋敷があったので、この名が付いたと言われている。

中町(なかのちょう)
上士層の屋敷町で、広小路と鎌原通の間にある事から、この名が付いた。明治から昭和にかけて商業学校、紙幣工場、諸官庁があった。なお、ここに蛤横町というのがある正徳の大火があった後、ここに横丁を設けた。ふさがっていた町に口があいたという事から蛤横丁と呼ばれたという。

大榎通(おえのきどうり・おおえのきどうり)
伊達氏入部以前は丸串城の外郭にあたり、堀があったという。その堀の土塁に榎が植えられ、後に大きな榎になったので、この名が付いたと言われている。ここは上士層の屋敷町であった。

富沢町(とみざわちょう)
御典医、冨沢氏が住んでいたので、この名が付いたと言われている。しかし、冨沢氏は「ワかんむり」の冨であり、町名は「ウかんむり」の富である。俳人「冨沢赤黄男」の戸籍上の氏名は冨沢であるが、俳句を作るときには富沢と書いていたらしい。小平霊園にある彼の墓碑銘には「冨沢」と書かれている。これは非情に謎めいた話であるが、個人としては冨沢であり、活躍する場合には富沢であったのかも知れない。町名が何故「富沢」なのかは不明である。

竪新町(たつしんまち・たてしんまち)
藩政時代、辰野川の河口に作られた新町、袋町に縦(竪)につながって造成された町という意味を持つ。むかしは城堀(内港)に面していた。

横新町(よこしんまち)
竪新町の北側に隣接する新町であり、この名が付いた。かっては堀末番所や船着き場があり、幕末には物産役所や融通会所がおかれていた。小字に「お茶より橋」「横ノ丁」などがあった。

北町(きたまち)
辰野川中流の両側に位置するこの町は、旧藩時代、吟味役所などがあり、北の足軽組が居住したので、この名がついたと言われる。小字に「立町」「さがり」「花売横丁」「西江寺下」「立正寺前」「真教寺前横丁」などがある。

龍光院前(りゅうこういんまえ)
 宇和島の鬼門封じの祈願所として建立された臨海山龍光院の前に位置するので、この名が付いたといわれる。藩政時代には、龍光院裏番所があった。

向新町(むかしじんちょう・むこうじんちょう)
旧藩時代、辰野川を隔てて、横新町の対岸の埋め立て地に足軽組が居住していた。横新町の川向こうに位置していたので、この名が付いたと言われる。

舟大工町(ふなだいくまち)
旧藩時代、千石浜と呼ばれ、後にお船手へ通じる海岸の道沿いに片側町が出来た。そこに船大工が多く居住していたので、この名が付いたと言われる。

追手通(おうてどうり)
宇和島城の正門である追手門に由来する。旧藩時代には城堀に沿った片側町で船着き場もあった。明治になり堀は埋められ、その後市街化して賑わったが戦災で消失した。小字に大津屋横丁、播磨屋横丁がある。むかし「いろは」という家があり、井戸を掘ったところ貝殻が沢山でたそうである。

堀端通(ほりばたどうり)
宇和島城を取り囲む城堀に沿う片側町であった。明治43年に堀が埋め立てられたが、町名は残った。神尾、宍戸、松根など上級武士の屋敷があった。

桜町(さくらちょう)
昔は各家の桜の木を一戸一本以上必ず植えていたので、この名が付いた。他の佐倉などという地名とは違い、純然たる桜の木に関係した名前である。ここには内田横丁、萩森横丁などがあった。

佐伯町(さえきまち・さいきまち)
文禄三年戸田勝隆病死の後、藤堂高虎が宇和島に封ぜられた時、佐伯権之助が丸串城代家老として舘を営んでいたのでこの名が付けられたという。

神田川原(じんでんがわら)
宇和津彦神社の神領田があったことによる。小字に法円寺前、中ノ町、泰平寺前、御通り橋前、勧進橋前、谷川口、戸板口などがある。泰平寺は以前は丸之内にあったが(鶴島神社下)侍の星氏の屋敷を設けるため今の場所に移った。

薬研堀(やげんぼり)
旧藩時代、浜御殿の南に位置するこの地には、堀や馬場などがあった。その馬場や堀が薬研の形に似ていたのでこの名が付いたと言われる。

裡町(うらまち)
裏町とも書かれる。本町に対しての裏の町という意味である。旧藩時代には北の番所が置かれた。一丁目から五丁目まであり、小字の「六兵衛坂」は今でも通称として残っている。小字に御油屋横丁、柳横丁、富士屋横丁などがある。

笹町(ささまち)
正徳年間(1700)の大火までは笹垣をもって住宅を囲んでいたから、あるいは小笹が繁茂していたから、とも言われる。

元結掛(もっといぎ)
昔、馬目木(まめぎ)の木に剃った髪を元結いとして結びつけたことから、元結木(掛)と言われたという。ここに沢山の小字がある。小役組、御鷹場、中ノ町、御長屋、新お長屋、浜の丁、御大師前、百人組、新持筒組または新徴組、的場。

丸之内(まるのうち)
小字に堀之内、豊後橋、御浜、山里屋敷、馬場裾、御馬屋、などがある。豊後橋は搦手門の橋名で佐伯豊後の架設したものである。

御徒町(おかちまち)
旧藩時代に徒士(かち)の居住していたことからこの名が付いた。

御殿町(ごてんまち)
中御殿、本御殿があったから。丸穂合併後大正11年2月10日この町名が付けられた。

本町(ほんまち)
昔は町家の中心であった。一丁目から五丁目まであった。小字には辻井戸横丁、焼ヶ横丁、増原横丁(増原某は酒造所、秀吉の家臣であったが宇和島に移住したという)奈良屋横丁(奈良屋饅頭、唐饅頭の元祖である)、会所(元郵便局)には西郷吉之助も宿泊したと言われる。

袋町(ふくろまち)
昔は魚市場などがあり、浜通りは寂しいところであったという。文字通り袋小路だった。小字に河岸端、亀屋横丁がある。

余談 
柿原について、五島英夫氏は述べる。
祝森に字鹽(塩)田という所がある。往昔此処まで海であった。
柿原は植物の柿ではなく、海の牡蠣である。上里(あがり)橋付近(柿原ダム近く谷松酒店前の橋)を字上里と云い付近からは蛎殻の付着したものが発見されている。上里は船から上がる意味とも云う。

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